仏教の歴史

仏教の歴史

約2500年前、インド北部のブッダガヤの菩提樹の下で、釈尊が 悟りを得て仏陀(覚者)となられました。そして、サールナートで5人の沙門(修行僧)に教えを説かれたのが仏教の始まりです。ここでは、仏教の長い歴史を簡潔にまとめてお伝えいたします。

仏陀の誕生

釈迦国の王子として恵まれた生活を送りながらも、若き日の釈尊は生老病死について思い悩んでいました。何をやっても心が満たされることはなく、29才の時にすべてを捨て、修行の旅に出ました。高名な二人の仙人の元で修行をしましたが、そこでは心の安らぎを得ることができませんでした。

次に、岩窟や森林に住み、身体を極限まで痛める苦行を行いました。釈尊の苦行は、長時間息を止めたり、42日間も断食したり、何度も気を失い、生死の境をさまようほど壮絶なものでした。しかし、こうした苦行を5年間続けても、心の安らぎは得られず、苦行を中止する決意をします。

極端な苦行も極端な快楽も最良の道ではなく、中道を歩むことが大切であると気づき、ネーランジャナー河で沐浴し、スジャーターの乳粥を飲み、気力と体力の回復に努めました。そして、ブッダガヤの菩提樹の下で深い瞑想に入り、出家から6年後、35才の時に悟りを得ました。

初転法輪

仏陀(覚者)となった釈尊は、菩提樹の下で、悟った真理を反芻し、安らぎの境地を味わいました。8日目に2人の商人が釈尊の姿を見つけ、その崇高な姿に心を打たれて、バターとはちみつを施しました。その後も、悟りの境地を自ら味わい楽しみました。これを自受法楽といいます。

この時点では、釈尊にはまだ教えを説く意志はありませんでした。釈尊が悟った真理は難解にして理解しがたく、教えを説いても理解を得られず徒労に終わる、と危惧されたのです。とはいえ、一方で、苦しみを乗り超えた深い体験を人々に伝えたいという思いも次第に募ってきました。

そして、21日目についに立ち上がり、300km離れたサールナートまで向かい、かつて苦行をともにした5人の沙門に初めて教えを説きました。これを初転法輪といいます。コンダンニャが最初に悟り、他の4人も次々と悟りを開きました。それは僧伽(サンガ)の成立を意味するものでもありました。

釈尊の十大弟子

初期の僧伽(サンガ)を率いた中心的人物として、サーリプッタとモッガラーナの二人がよく知られています。智慧第一のサーリプッタは、釈尊の代わりに説法ができるほど信任を得ていました。神通第一のモッガラーナは、物事を見通す神通力に優れていました。

頭陀第一のマハーカッサパは、最も清貧な生活を送り、釈尊の衣鉢を受け継ぎました。解空第一のスブーティは、空の思想を最も深く理解し、説法第一のプンナは、釈尊の教えを在家信者に説法することに長け、論議第一のカッチャーヤナは、釈尊の教えを解説することに長けていました。

天眼第一のアヌルッダは、肉体の眼に代わり法の眼を獲得し、持律第一のウパーリは、すべての戒律を記憶し守り、密行第一のラーフラは、釈尊の息子であるがゆえに人一倍努力し、多聞第一のアーナンダは、釈尊のそばに仕えて釈尊の説法を最も多く聞いたことで知られています。

根本分裂

釈尊の入滅後、釈尊の教えの解釈をめぐって意見の対立が起こらないように、頭陀第一のマハーカッサパが中心となり、ラージャグリハ郊外の七葉窟に500人の阿羅漢(悟りを開いた比丘)を集めて、釈尊の教えを確認する会議を開きました。これを第一回結集といいます。

ここでは、多聞第一のアーナンダが釈尊の教えを一つ一つ暗誦し、参加した阿羅漢たちが確認し、全員で復唱し「経」として確定しました。また、持律第一のウパーリが守るべき戒律(規範)を暗唱し、参加した阿羅漢たちが確認し、全員で復唱して「律」として確定しました。

その後100年ほど経過し、「律」の解釈に違いが生まれたため、ヴァイシャーリーに700人の阿羅漢が集まり、第二回結集が行われたました。ここでは「律」の解釈をめぐって激しい議論がなされ、これを機に教団は、保守派(上座部)と革新派(大衆部)に分かれていく流れとなります。

上座部仏教(南伝仏教)

上座部仏教は南インドからスリランカへと伝えられました。紀元前二世紀頃、ヒンズー教徒のタミル人がスリランカへ侵入し、仏法が失われるとことを恐れた僧侶たちはパーリ語で棕櫚(しゅろ)の葉に経典を書き写しました。これが仏教史上初の経典『ニカーヤ』です。

パーリ語の経典『ニカーヤ』は、『ディーガ・ニカーヤ』『マッジマ・ニカーヤ』『サンユッタ・ニカーヤ』『アングッタラ・ニカーヤ』『クッダカ・ニカーヤ』に分類されています。現在は、漢訳『阿含経』としても伝えられています。

その後、上座部仏教はミャンマー・タイ・カンボジア・インドネシア・ベトナムなど東南アジアへと伝えられきました。現在も、出家者は僧伽(サンガ)を形成し、修行に専念し、托鉢によって生活し、在家信者は喜捨によって僧伽(サンガ)を支えています。

大乗仏教(北伝仏教)

紀元前後から七世紀にかけて、インドでは大乗仏教が盛んになります。それまで、教えは口誦により伝えられてきましたが、仏教の広がりとともに、経典が編纂されるようになります。主な大乗経典としては『般若経』『維摩経』『華厳経』『法華経』『大日経』などがあげられます。

龍樹(ナーガールジュナ)は、説一切有部への批判から「空」の理論を展開し、大乗仏教の教理を確立したことで知られています。また、無着(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)兄弟は、空の思想を受け継ぎつつ、唯識の理論を形成したことで知られています。

大乗経典は初期の頃はサンスクリット語で書かれていましたが、安世高など西域の僧侶、法顕・玄奘・義浄など中国の僧侶の手により漢語に翻訳され、北西インド・西域・中国・朝鮮を経由してはるばる日本へと伝えられました。

日本仏教(飛鳥~平安)

日本に本格的に仏教を取り入れたのは聖徳太子です。604年に制定された十七条憲法の条文には、「和をもって貴しとなす」「篤く三宝(仏法僧)を敬え」などとあり、仏教の教えをもとに内政を整えようとしたことがうかがえます。また、聖徳太子は『維摩経』『法華経』『勝鬘経』の注釈も著しています。

奈良時代に入ると、聖武天皇は鎮護仏教の方針をさらに推し進めます。国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、東大寺の大仏造立の詔を発布しました。また、奈良の都では、興福寺・東大寺・法華寺・薬師寺・西大寺などを中心に仏教教理の研究が進みます。

そして、三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・成実宗・倶舎宗の六つの学派が形成されました。これらを南都六宗といいます。また、平安時代の天台宗・真言宗を含めて八宗が国家仏教として公認されます。大乗仏教の教理を確立した龍樹は、八宗の祖と呼ばれています。

日本仏教(鎌倉~江戸)

平安末期から鎌倉時代にかけて、禅宗系や浄土系の新仏教が活発な活動を始めます。これらは皇族や貴族からの援助を受け経済的に安定し、旺盛な活動が見られなくなった旧仏教への反発といえます。新仏教に刺激されて、旧仏教も戒律の重要性を見直すなど改革に乗り出します。

室町時代には新仏教の各派は全国に広がりを見せます。なかでも臨済宗は幕府の信認を受け、武家の間に広まり全盛期を迎えます。また、戦国時代になると、新仏教は民衆の間にも広がり、特に浄土真宗は戦国大名をもおびやかす勢力となります。

江戸時代に入ると、幕府は年貢を免除するなど寺を保護する一方で、本寺と末寺の関係を明確にする「本末制度」やすべての民衆を寺の檀家に登録させる「寺請制度」を設けるなど、自由な活動を制限して、幕府が管理しやすいようにしました。

日本仏教(明治〜現在)

日本には古来より伝わる神道があります。仏教は異国から伝わった教えではありますが、日本人は仏教を価値あるものとして受け入れました。その後、神道と仏教はそれぞれの価値観を尊重しつつ、共存する道を歩んできました。そして、神道と仏教が融合した神仏習合という形態も見られるようになります。

しかし、明治元年、明治新政府は神道国教化の方針を採用し、神仏習合を禁止し、神仏分離令を発布しました。神仏分離令は仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、歴史的・文化的に価値のある多くの寺院や仏具が破壊されました。

現在の日本国憲法では政教分離の考え方が採用され、国の機関が宗教活動や宗教教育に関与してはならないことになっているため、政治によって宗教が排斥されることはないものの、教育・医療・福祉などの分野からも分離されてしまい、宗教者が心の教育や心のケアに携わりにくい状態となっています。

統合仏教

近年、欧米諸国(特にアメリカ)ではマインドフルネス瞑想が注目を浴びています。マインドフルネス瞑想は、もともと釈尊の説かれた瞑想法ですが、欧米においては宗教色が取り除かれ、心理療法として取り入れられ、医療や教育やビジネスの現場などで活用されています。

釈尊より伝わる瞑想法をマインドフルネス瞑想として再構成したのは、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン氏です。上座部仏教と大乗仏教に伝わる経典や瞑想法を統合的に見直し、出家在家に関わらず、誰でも日常的に瞑想を実践できるように構成し直しました。

仏教に影響受けた奥深い伝統文化がありつつも、生活スタイルの欧米化が進んでいる日本において、マインドフルネス瞑想は受け入れやすい瞑想法といえます。今後、日本の医療や教育やビジネスの現場に取り入れられていくものと思われます。